2017-04

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

敬語問題

聖書の日本語訳についての続き。原語にはない敬語を、翻訳においてどこまで使うかというのも避けられない問題。神が主語である場合、「言った」「言われた」「おっしゃった」「仰せになった」のうち、「おっしゃった」「仰せになった」はあまりにも、だし、かといって「言った」だとこれまたあまりにもだから、「言われた」を用いる、というのが妥当な感覚かもしれないが、「言われた」には受け身の意味もあるため、「主はモーセに言われた」という一文だけを文脈を離れて見たら、うちの学生たちなら100%、モーセが主に対して何かを言ったと解するだろう。だからと言って「主はモーセに向かって言われた」とかするわけにもいかないし。やはり敬語はナシのほうが、意味の一元化という点ですっきりするような気がするのだが。
スポンサーサイト

コメント

敬語問題に関する先生のご考察を面白く、また息を詰めながら(笑)読ませていただいてます。

でも、敬語なしというのは、やはりまずいのではないかと思ってしまいますね。なんか、畏怖の念というのが、きちんと伝わらないような気がして。別に聖書としてでなく、歴史的文献として他の文献と合わせて読むのだったらいいのかもしれないけれど、読んでる本人が信者でなくても、信者が信仰の一部として使用しているものだと言う前提で出版・販売されてるものにその宗教での神に対する見方というか、そういうものが反映されてないとまずいような気が(なぜか)するのです。

Re: タイトルなし

そうですね。うろ覚えですが、確か韓国語訳の聖書は(といっても今はいろいろあるのかもしれませんが)、たいへんきちんとした敬語を使っていましたよね。日本語訳の場合の敬語というのは、遡っていくと身分制(天皇制)における人と人の関係に行き着くので、現代において、信仰の場所においてであっても、あまりに仰々しいのを使うのに、私は個人的に抵抗があります。それでまあ落としどころとして、受け身の意味もある「れる、られる」あたりが妥当だろう、とは思うのです。思うのですが、この「れる、られる」が(繰り返しになりますが)多義的で日本語学習者泣かせ。「考えられる」なんて、受け身なのか、可能なのか、敬語なのか、自発なのか、文脈を離れたら分からない。文脈に沿って意味を取るのが日本語というものなのだ、と開き直る以外はないのでしょうが。

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

«  | ホーム |  »

プロフィール

levyyamamori

Author:levyyamamori
山森みか
Mika Levy-Yamamori Ph.D.

以前の日記は
http://www.geocities.jp/mikayamamori/

コメントは承認制なので反映に時間がかかるかもしれません。
連絡は、yamamori @ post.tau.ac.il まで (アットは半角、スペース抜きで)

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (228)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。